善光寺縁起

善光寺はおよそ千四百年前(西暦五五ニ年)、百済かの聖明王から献上された一光三尊阿弥陀如来が廃仏派の手によって難波の堀江に投じられていたのを、信濃の本田善光が背負って招来し、皇極天皇の発願により創建(六四ニ年)されました。

今から二千五百年もの昔の、天竺いまのインドのお話でございます。
ここに、月蓋(がっかい)長者という長者が住んでおりました。
月蓋は、お金持ちでございましたが、欲が深く他人にはほどこす心もなく、仏さまを信仰する気持ちなどは少しもございません。
さて、この国におそろしい病気が流行しました。国中の家には病人が満ち、死骸がいたるところに散乱するといったありさまでした。
月蓋に一人の娘がいました。その名を如是姫(にょぜひめ)といい、両親の寵愛がかぎりなく、掌中の玉として育てられていました。その如是姫にも病がたどりつき明日をもしれぬ身となりました。

さすがの月蓋もお釈迦さまにおすがりするほかはないということを悟りました。いままでの一切の罪を懺悔し、お釈迦さまに如是姫の命が助かるようにと、心から教えを仰ぎました。お釈迦さまは西方極楽浄土の阿弥陀如来を信じ一心にお念仏をとなえるようにと教えました。
月蓋は屋敷に帰りますと、さっそくお釈迦さまの教えに従って、西に向かって阿弥陀如来さまに心からお祈りいたしました。
すると、阿弥陀さまは、一光のなかに観音菩薩と勢至菩薩を左右に従えて、お姿を現されました。そして、まばゆいばかりの光明を放たれました。

すると、不思議なことに如是姫をはじめ国中の病はことごとく全快したのでございます。月蓋は、如是の功徳を目の当たりにして、さっそくお釈迦さまのもとに参上して申し上げました。
「あの一光三尊の仏さまのお姿を写しとどめて、永くこの世にあっておまつりしたいと存じます」 お釈迦さまは、その願いをお許しになり、竜宮城から「閻浮檀金(えんぶだごん)」という黄金をとりよせ、阿弥陀さまとお釈迦さまが、ともに光を放って「閻浮檀金」をお照らしになりますと「閻浮檀金」は、自然に一光三尊の阿弥陀如来さまと同じお姿になったのでございます。

後に、この仏さまは朝鮮半島の百済国にお渡りになり悪行を重ねていた聖明王を改心させ、手厚く祭られました。

時に欽明天皇の十三年十月、仏勅により、我が国の欽明天皇に献上されました。
欽明天皇は、阿弥陀さまを蘇我稲目にお与えになりました。蘇我稲目は、向原の家を仏寺につくりなおし大切に安置しました。
これが我が国ではじめて仏寺で向原寺(むくはらでら)といいます。

しばらくして、国内に悪い病気が流行いたしましたので、蘇我氏を良く思っていなかった物部尾興(もののべのおこし)は、向原寺に火を放ち、阿弥陀さまを大きな炉で溶かしてしまおうといたしました。

ところが不思議なことに七日七晩たっても少しも溶ける様子がなかったので、阿弥陀さまを、そのまま難波の堀江というところに投げ込んで沈めてしまいました。

さて、信濃の国、麻績(おみ)の里に本田善光(よしみつ)という人が住んでおりました。善光は信濃の国司のおともをして都にあがっておりました。
善光が難波の堀江のかたわらを通りかかると「善光善光」と呼ぶ声がします。すると堀の中から「汝は月蓋長者、聖明王の生まれ代わりなり、故に汝が故郷信濃の国は有縁の地なれば負いて帰るべし」と声が聞こえ、阿弥陀さまは光を放って善光の背中に飛びついたのでございます。

善光は、喜び勇み、一光三尊の阿弥陀さまを背負って信濃に帰りました。
しかし、善光の家には、仏さまをおまつりするような場所がございませんでしたので、西の庇の臼の上に安置して信仰しました。

その後、如来さまの霊験の尊さに心をうたれた皇極天皇のお力によって、一光三尊の阿弥陀さまをおまつりする立派なお寺が建てられ、本田善光の名をとって善光寺と名付けられました。

これが善光寺の起こりです。